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[姫野カオルコ自身による全作品解説]
(・”姫野カオルコ自身による 「姫野カオルコスペシャル」”より    
 了解を得て転記:「月刊カドカワ」Vol.14−9月号(1996.p.67-91)

・『バカさゆえ…。』 new 01.12.08

・『A.B.O.AB』
・『愛は勝つ、もんか』  
・『アッシュ(H)』
・『禁欲のススメ』
・『愛はひとり』
・『変奏曲』
・『ガラスの仮面の告白』 
・『終業式』 
・『ひと呼んでミツコ』
・『ブスのくせに!』
・『ドールハウス』
・『喪失記』
・『不倫(レンタル)』


(今後順次掲載する予定 ;'90の『ひと呼んでミツコ』から'96の『レンタル(不倫)』までの初期作品群)


『バカさゆえ…。』
<角川文庫 96・7/ 増刷予定アリ>

 これはパロディ小説集。元ネタになっているのは、『奥様は魔女』や『あしたのジョー』といった、1970年前後に人気を集めたテレビドラマや漫画などです。パロディは元ネタを知らないと面白くないから、元ネタ選びには苦労しました。その結果、誰もが知っていそうなこの時代のものになりました。

 自分が大好きな作品をパロディにされると、怒る人、いますよね。『愛は勝つ、もんか』のところでも言ったけど、まあ、しょうがないとも思うんですけど……そないに怒ったらあかんわ(笑)。

 パロディって、オマージュですよね。その作品をいかに愛していたか、という証拠なんです。興味がなかったら、なにも感じませんからね。心に引っ掛かるものがあったから、パロディにするわけで。小学生の男の子が好きな女の子をいじめるみたいな心理に似てますか。オマージュと、単なる茶化しや悪口は違うと、パロられた当人がいちばんわかると思う。

 それから70年代って、やっぱり面白い時代だったと思うんですよね。この作品はあの時代へのオマージュにもなっています。それは単に私の世代のノスタルジーだけじゃなくて、今の若い子が見ても面白いんじゃないかな。日本史で言えば、戦国時代とか幕末って面白いでしょう。70年代って、そんな感じですよね。あの頃、映画や漫画も出尽くしたように思います。そういう意味では、今の時代はパロディしかあり得ない、という言い方もできるかもしれません。


『A.B.O.AB』
<集英社文庫 (92.10講談社 「四角関係」改題)>

 これは、「クリーク」に連載してたものをもとにふくらませた連作小説。A型の永子さん、O型の尾形君とか、それぞれの血液型を代表する男女8人と、血液型不明の霧田さん霧子さんがでてきます。
 一つ一つの話は短くて、同じ条件に置かれたとき、それぞれの血液型の人はどういう反応をするか、ということを書いた小説です。

  男の人に「重い」と言われて反省したわけじゃないんですけど(笑)、とにかく気軽に楽しく読んでもらえる本も出してみたいと思っていたので。

 私に限らず、女の人って血液型とか星座が好きでしょう。
 内容は、もう目一杯、女の子路線にしたんです。出す前は、こりゃ絶対売れると思ったんですが……全然売れなかった(笑)。でも、やり方によっては売れたはず、と今でも思ってます。血液型占いが好きな人なら、絶対楽しめる小説です。

 何点か入っている写真は、私がスウェーデンに旅行したとき撮ってきたやつ。最初は別に入れるつもりじゃなかったんですよ。担当編集者がページ計算を間違えて、白いページができることになっちゃったので、急遽入れたんです。(<注:単行本)
 そのとき、本当は写真じゃなくて、イラストを描いてくださいっていわれたんです。でも、角川書店のSさんに、「下手なんだからさ」っていわれてたから意地になってて、「描かへん!」って言って、それで写真が入ることになったのでした。


『愛は勝つ、もんか』
<角川文庫(94.10大和出版)>

 タイトルのつけ方がめきめき上達しました(笑)。みんな、「愛は勝つ」と言ってほしいのに、反感買うんじゃないかなあ、と怖かったんですけど、候補の中で編集者にいちばん受けたんで、これに決めました。

 この本は「mc sister」の連載などをまとめて改稿したエッセイ集です。連載してたときは、抗議のお便りが殺到しました。KANさんのファンから。

 中学生や高校生の頃って、自分の好きな人を少し茶化されただけでも悪口ととるでしょう。そういう年頃だと、かえってオーソドックスな文章スタイルがいい、と思うんでしょうね。

 歌詞をテーマにしたエッセイが中心なんですが、私は歌を聴くとどうしても歌詞に目がいってしまうので、すぐ人生幸露師匠のように「この歌詞はなんや、責任者出てこい!」って(笑)。あ、誤解のないように言っておきますけど、「愛は勝つ」は好きですよ。いい歌じゃないですか。「愛は勝つ」や「夢をあきらめないで」、本当にいい歌だと思います。その後に筋肉少女帯の「暴いておやりよ、ドルバッキー」を聴くと、最高の取り合わせでしょう.

 この中で、「小指の思い出」をとりあげているんです。♪あなたの噛んだ小指が痛い♪ってやつ。子供の頃は意味が分からなかったという話なんですけど、連載したときイラストを描いてくれたみうらじゅんさんが、イラストの中に「足の指だったのかもよ」と書いてきたんですね。あのときは本当に目から鱗が落ちる思いでした。


 


『アッシュ(H)』
<徳間文庫 (94.10『短編集H』改題)>

 官能小説集という捉え方をされることが多いんですけど、タイトルのつけ方が上達して(笑)。でも本当はというのは法螺やホラーのなんです。

 たしかに、セックスとかペニスとかオマンコとか、そういう用語はバンバン出てきます。セックスシーンだって多い。だから、パラパラって見ると、そういう話なのかと思うかもしれないけど、実は全然いやらしい話じゃありませんよ、こんなの。

 私自身は、セックスとかペニスとなどという言葉には、何もいやらしさを感じません。でもそういう言葉をいやらしいと思える人の方がノーマルなんでしょうね……。
 そういえば、某社ではセックスという言葉が使えないんです。「じゃあ、性交にしといてください」って冗談で言ったら、「そうさせていただきます」って通ったときは驚いた。
 
 私がいやらしいと思う言葉は、もっと別のものです。え?なにかって。い、言えません、そんなの。……恥ずかしいと思ってるんだから……。
 いやらしいことは、嫌いじゃありません。大好きです。でも、ここに書いたようなことじゃないんです。

 『アッシュ(H)』は、愉快な小説です。
 どうなるのかな、どうなるのかな、というストーリー・テリングの妙味を味わってほしいと思って書いた短編集です。とくに、『課長の指のオブリガード』はオチを思いついたとき、嬉しくて嬉しくて。みんな騙されるわ、と思って嬉々として書いてました。
  




『禁欲のススメ』
角川文庫(91.11毎日新聞社「恋愛できない食物群」改題)>

 急にたくさん取材がくるようになって、そんななかで連載の依頼も来たんです。今はなくなちゃった週刊誌から。その連載をまとめたのが、この本です。
 連載してたときは、イラストも描いていたんですよ。毎日新聞社から出版されたときも載ってました。でも角川文庫に入れるとき「絵は捨てようね。下手なんだからさ」って言われて消えたの……。内心、結構うまいと思ってたのに……。

 とにかく初めての週刊誌連載だったんで、大変でした。締切が終わったと思ったら、すぐに次の締切が来るっていう感じ。そのころ、ある事情で病人の看病をしなくちゃいけなかったんで、病院と原稿でせいいっぱい。女の子らしいことはなにもできない毎日でした。

 ほんの思い出といえば、大学時代の男友達とご飯を食べに行ったこと。嬉しかった。銀座で会おうって言われたから、「Hanako」の人にお店教えてもらったりして(笑)。とにかく、こっちは時間がないでしょう。だから、さっさとコトを進行してもらいたかったんですね。駆け引きを楽しむなんて余裕、全然ありませんでした。とにかく忙しくて、時間を有効に使ってほしかった。それでお金を払って「キスしてください」ってお願いしたけど、「きみの愛しかたは重い」ってさ。

 ああ、こんな時期でさえなかったら……でも、どうせダメだったでしょうね。「重い」と言われるのは、私のいつものパターンですから。 


『愛はひとり』

集英社文庫 :95/9 幻冬舎>

 これはギフトブックのコンセプトで作りました。散文詩のような短編小説を集めて、でも全部つながっているような。
 フランス語がよく出てくるんですけど、これもこの本を構成する一つの美しいデザインとして使ってあります。

 あとがきのフランス語?聞かない方がいいと思うけど……大したことが書いてあるわけじゃないんです。「お願い、読まなくてもいいです。とにかく買って、買って下さい!」って書いてあるの(笑)。全然売れなかったけど……。でも、売れなかったわりには、読者からたくさんお便りがきた本でした。「あまりに自分の気持ちが書いてあるようで、泣いてしまいました」というような。

 タイトルは、キャンディス・バーゲンの出た映画からとったんです。中学生とき観た映画で、内容は忘れちゃいましたがそのタイトルだけずっと印象に残っていて……。
 当時も、そんなに彼女のファンだったわけじゃないんですけど、彼女の都会的なイメージがとても懐かしい気がして。

 私、緑のあるところや温もりのある土地ってすごく息苦しく感じるんですよ。そういう田舎で育ったせいでしょうね。アーティフィシャルで、ネオンがあったりする人工的な街の景色の方が、よほど落ち着きます。
 だから長いこと、高円寺とか、中央線の町って嫌いでした。少し住んたこともあるんですが、「村」みたいな温かい雰囲気があるから。 でも!今は中央線好きです。高円寺とか野方とか大好きよ、大槻くん。

(注:「あとがきのフランス語」 cf.「姫野カオルコけんきゅう所 ・あとがきのひみつ」)



『変奏曲』
< 95/8 角川文庫 :92/11 マガジンハウス>

 これは、テッテー的に女の子にサービスする小説を書いてみよう、と思って24歳の時に書いた作品です。

 女の人には、いくつになってもドキドキしたい、こんな恋があったらなあって憧れる気持ちってあると思う。そういう女性の夢に、「これでもか!」って答えてあげようと。作者としては密かに「これって映画化むきだな」と期待してました。心配性な性格にしては、こと作品についてはノーテンキですね、私。

 タイトルは最初『チゴイネルワイゼン』だったのを、『変奏曲』に変えました。竹宮恵子の『変奏曲』のノベライズかしら、と勘違いして買う人も多いのでは、と狙った(笑)。

 これは洋子と高志という双子の姉弟の恋愛小説です。
 小学生の時、親族の者から「昔、双子の男の子と女の子がいはったわ」という話を聞いたんです。「二人とも背えが高うて、よう勉強ができはったけど、おとなしい人たちやった」って。それだけの話なんですけど、すごく興味を引かれて、いろいろ空想しました。それがもともとのアイデアですね。

 兄と妹の関係って、普通の恋愛における男女の力関係と同じベクトルだから、ちっともエロティックじゃない。姉と弟だと、姉のほうが強いでしょう。その力関係が逆転する瞬間。それが、とてもエロティックだ、いやらしーっと。
 
 でも、そう思う人が少なかったのか、映画化されるほどには売れてくれなかったのは残念であります。


 


『ガラスの仮面の告白』
<92/09 角川文庫 :90/05主婦の友社>

 ある日、取材に来たライターの方が元編集者で、昔いた主婦の友社の元同僚に、「今日取材した人は、絶対もっと違うものもかける筆力のあるひとだ」とよもやま話をなさったところ、主婦の友社の人が興味を示し、私の作品を読んで、「うん。あなたは力があるよ。うちはエッセイという形でだすけど、本質的には地方上京者の自伝小説のつもりで一つ作品を書いてくれないか」と電話をくれたわけです。いちばん不安だったのは、こんなにサービス・シーン(濡れ場)がなくていいんだろうか、ということ。なにせそれまでは「サービスを! サービスを!」とせめたてられて書いてましたから(笑)。でもこれは今でもすごく勉強になったと思っています。客観と主観のバランス、文学と商業のバランス、などを考える点で。

 だからエッセイの形で出す、と言われたのはプレッシャーでした。よく依頼を受けるんですけれど、事実を書かないといけないエッセイって苦手で・・・。
 事実と真実は違うじゃないですか。文章を構築することで真実も、嘘八百も描出できる小説の方が私には向いていると思う。

 『ひと呼んでミツコ』とこの本はほとんど同時に出ました。それ以来、急に取材が増えましたね。すごいときは一日に三本とか。しかもそれまでは男性誌でセックスとかオナニーについてのコメントだったのが、女性誌でオシャレや恋愛についてのコメントを求められるようになって、なんだかすごく不思議な気持ちで、ずいぶん長いことギクシャクしてました。
 



『終業式』
<新潮文庫(96/04光文社『ラブレター』改題)>

 手紙はよく書きます。自分の気持ちをきちんと伝えるには、手紙がいちばんいいんじゃないかと。
 もちろん、自分の気持ちを正確に100パーセント伝える手段なんてないんだけど、手紙なら10パーセントは伝わる気がするんですね。会話だと、それ以下しか伝わらない。場所の雰囲気などによって、結論が変わることもあるし。特に関西人である私の場合、3分に一回は笑いを撮らなくちゃいけない気がして(笑)。

 この小説は、地の文がまったくないという実験的な手法を取り入れています。全部手紙とファックスだけでできているんです。
 二十年近くの時間の中に、たくさんの登場人物がお互いに交わす手紙の中から、読者に「この人は、この間にこういうことをしたんだろうな」という想像をしてほしい。いわば、全編、行間を読む小説ですね。映像で表現できない、活字だからこそ楽しめる世界です。
 読者から「何十年も前からの手紙やFAXを全部保存しておくなんてすごいですね。しかも、他人の分まで。」っていうお便りが来たときは、ドタッとなりましたけど(笑)。

 登場人物について言うと、これなでの青春小説では、優子みたいにある程度屈折を持っている子が主人公になることが多かったでしょう。でも実際には悦子みたいな子がいちばん多いと思う。普通の女の子らしい可愛らしさ、愚かさ、意地悪さを持っているような。この作品ではそういう子にスポットライトを当てたいと思いました。
 



『ひと呼んでミツコ』
<93/04講談社文庫 :90/03講談社>

 これは二十代のとき書いて、長い間ずっと持っていたもの。自分で出版社に持ち込んで、本になったんです。書いた順番だと『変奏曲』のほうが古いけど、現在出版されているなかでの順番だと一番古い作品ですね。とにかく律儀に規則を守る女の子が主人公の話。「大人なんだから規則なんか」と多くの人はミツコのような子を「ヘンだ」と思うでしょう。でも学校ではあんなに規則を守れって言われて、一生懸命守ってきたのに、社会に出るとヘンだなんて理不尽じゃないか! ミツコのほうが本来的には正しくて変わってないのだ、という主張をこめて書きました。

 持ち込みをしたのは、コネとかサロン外交が苦手、というより、ノロノロと情緒的で時間を食うからいやで。持ち込みでも絶対に出版できるという絶対的な確信がありました。心配性な性格なのになぜか・・・・・・。
 
 最初、少女時代からすごく憧れていた某大手出版社に持っていったんですが、読んでもらえず、門前払いされました。それでも作品に対する確信はゆるがなかったので業界最大手へ(笑)。

 これはオムニバスなので二作分の原稿だけ置いて帰ったんですけど、数日後、出版部長から「続きを持ってきなさい」と電話がかかってきました。残りを持っていくと、その場で読んで「ものすごく面白い。本にします」って、その場で印刷所に回してくれたという、まるで映画の場面のような決まり方でした。もちろんうれしかったし、確信もあったのですが、それ以上にびっくりしました。
 


『ブスのくせに!』
<01/04新潮文庫 :95/10・毎日新聞社>

 完璧に上達したタイトルの付け方(笑)。「本の雑誌」で95年度のタイトル大賞第3位にランクインしました。
 最後まで『美人は損をする』とどっちにしようか迷ったんですが、結局、打ち合わせをしていた居酒屋の女の子に選んでもらって、決めました。

 『ブスのくせに!』っていうのは、そう言われた女の子の話ではなくて、世の中の女の人のエネルギーは、こういう気持から湧いてくるのだろうな、と思って。

 つまり、自分が一生懸命真っ当な方法で頑張っているのに、自分から見れば何か真っ当じゃない方法で上手く立ち回る女の人を見るとき、「ブスのくせに!」と思うじゃないですか。
 別に、女の人に限ったことではありません。男の人だって同じです。男同士だったら「三流大学卒のくせに!」とかね。

 例えば、上司にすごく気に入られている美恵ちゃんというOLがいるとしましょう。彼女の同僚達は給湯室で、悪口を言うことでしょう。でも「美恵ちゃんて嫌い!」と、はっきり言う人って滅多にいない。「彼女って、こういうとこあるよね」って婉曲に言うでしょ。それはきっと、本当に嫉妬してるという気持ちを認めたくないとか、他人を嫌う自分がイヤという心理のせいだと思うんです。でも、嫌いなら嫌い、と思ってもいいじゃないですか。
 この本はその嫉妬のエネルギーをプラスに活かして頑張りましょう、というメッセージを込めたエッセイ集です。
 


『ドールハウス』
<角川文庫 :(92/4講談社『空に住む飛行機』改題 94/4講談社文庫)>

 処女三部作を書こう、と決意しまして、第1部がこれです。
 主人公の理加子みたいに、何らかの”重いもの”を抱えて生きている人って、たくさんいる。でも、マスコミが築いた”普通”の中では黙っているしかないんです。特にそれが性がらみになるとなおさらで、今の時代、処女じゃないふりをしている処女って結構いると思うんです。

 形式は純文学と呼ばれるものですけど、これで今までと違う読者がつきました。
 それまでの私の作品は、その本当の面白さが一部の人にしか感じられなかったのではないでしょうか。そのエッセンスが、もっとたくさんの人に伝わるように書いてみたんです。

 ある女性に「感動しました。『ひと呼んでミツコ』を読んだときには、これほど筆力のある人とは思いませんでした。」と云われ、しみじみ「愛しのエリー」を出したサザンオールスターズの気持ちが分かりましたね(笑)。
 単なる笑いや単なる哀しみよりも「笑いの奥にある哀しみ」とか「哀しみの奥にある笑い」のほうが、人間が人間であることであり、知的であることだと思いませんか?

 ちなみに私は、サザンのなかでは「東京シャッフル」と「勝手にシンドバット」が好きです。実はコメディのほうが、はるかにエネルギーを消耗しますし体力も気迫も要します。文学の区分けってよく解りませんが、読者が限られるという意味では『ひと呼んでミツコ』のほうが純文学ではないかと思うんですけど。
***


『喪失記』
<角川文庫 :94/5ベネッセコーポレーション>

 これははっきり言って、売れました。私の本のなかでは。それまで、タイトルのつけ方がよくわかってなかったんです。『ひと呼んでミツコ』『変奏曲』も、とても内容と合っていてシックなんですけど、タイトルってそれだけじゃダメなんですね。人目を引かないと。ただ、人目を引きすぎて、教育関係の書籍で女子高生の売春レポートのページに、勝手にこの本の表紙の写真が使われてたくらい。内容とは全然関係ないのに(笑)。

 この作品は、『空に住む飛行機』(『ドールハウス』)に続く処女三部作の第2段に当たります。喪失というのは、もちろん処女喪失を連想させると思いますが、そうではなくて、主人公の理津子は、成長過程のなかで何かを喪失して大人になった人なんです。それは何かと言えば”女であること””女としての自信”です。
 この理津子と三部作の完結編『レンタル−不倫−』の理気子は、私の作品のなかで、最も私自身に近いキャラクターだと言えますね。

 理津子の友人として登場する大西さんという男性は、私の理想の親友。本を全然読まない人ですが、エセ・インテリではない本当に知的な人です。二人の友情は本物ですけど、男女の友情がきちんと成り立つ女性とゆうのは、きっと女性としては不幸なんでしょうね・・・・・・。

 読んだ男性からよく、「怖かった」って言われたんですよ。女性はそんなこと言わないのに。「Hすると、後でメンドーなことになるような女」って思ったのかしら(笑)。

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『レンタル(不倫)』<96/7 角川書店 01/02/25角川文庫>

 処女三部作の完結篇です。
 『空に住む飛行機(角川文庫『ドールハウス』)』を書きはじめたときから、第三部はコメディにしようと決めています。ミュージカル・コメディとでも言うべきタッチで、前の二作とは雰囲気がまるで違いますが、前の二作を読み込んだ人はきっと、完結篇がこうなることを理解してくれると信じております。不倫と書いてレンタルと読ませるタイトルはまたまた上達しましたかね(笑)。ただ、不倫談そのものはさして重要なファクターではありません。

 主人公の理気子は既婚者の霞という男と恋愛をすることになるのですが、「不倫だって純愛」とか「悲しい」とかそういうことを主張する話とはまっっっったく違います。それよりも戦後論というか、1970年以降、日本の社会風潮や男女意識がどのように変化したかということを書きたかった。

 私は恋愛というのは精神のボクシングだと思っていますから、それがいつのまにか社交ダンスにどころか通信販売になり、どんどん薄味になってきた。恋愛に限らず人間関係すべてが薄くなり、精神の格闘を避けるどころか、最近ではそういう行為を発想することすらできない。

 霞さんという男は実にチープな男で、そのチープさゆえに理気子を勃起させる訳です。武田久美子のような男(笑)。
 この三部作は主人公と作者との距離がとても近いと言いましたが、理気子は至近距離といえます。でも、ラストでは至近からさらにジャンプして作者から離れ、理想型となりました。 
(「月刊カドカワ」Vol.14−9月号(1996)p.67-91 )



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・姫野カオルコ自身による 「姫野カオルコスペシャル」
  *姫野カオルコ自身による全作品解説('96の『レンタル(不倫)』まで)
  「月刊カドカワ」Vol.14−9月号(1996)p.67-91 <姫野さんの了解を得て掲載させていただいてます

...(「月刊カドカワ」は廃刊;バックナンバーは品切です:古書店でGET!)

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