bookレビュー
 
 
 
「喪失記」   

角川文庫(94.5ベネッセ)

<私的感想>      
 28才の時に異性と二人で食事をした回数は合計三回。イラストレイター白川理津子、33才。ひとりの、静かな、私生活。 
 理津子は偶然知り合った大西大介と、会ってただ食事をする。2週間で8回。 
 食事の合間に理津子は聞かれるともなく自分の話をする。教会に預けられていた幼年時代、学生時代の男の友達、仕事で会う人たち。 
 理津子が淡々と語るエピソードは、暗い、痛い、あるいは重たい。 
 しかし、読むものを暗い淵へと追い込んでは行かない。大西が直截なコメントで引っ張り上げるからだ。 
 賛美歌が繰り返される。理津子が幼少の頃間違えた歌詞を憶えていたもので、歌詞の間違いこそ訂正されてはいる。しかしこの美しい賛美歌の語句は、幼い理津子の理解のまま心に残ってしまった聖書の戒律を思わせる。成人してもなお理津子を縛る聖書の教えは、どのようなものだったのだろう。 
 大西と話すうちに、理津子は自分の内側にある重圧、自分で作ってしまったこだわりに気づく。自分を律し、律し続け、いつか蓄積された歪みを知るのだ。本当は理津子どうしたかったか、理津子はどうして欲しかったのか。自分が女であると思うことが出来ないものを、誰が女として見ることが出来ただろう。 
 理津子は戒律を守るあまり、自分の女性性を育て得ぬまま年を重ねていたのだった。誰かを愛することは喜ばしいことだと聖書に記されていることを知っていたのに。 
 大西は言う。「・・・女であることは神様だって変えれない。それを認めないから鉄人になって男になるんだよ。」 
 私もまた女であってよいのだ、と思って初めて、理津子は自分の女性性を受け入れるのである。  

 カトリックの戒律を抱いて育った人は日本には少ないだろう。しかし、信念、こだわり、美学、趣味と美しい呼び名のもとに、不自然なまでに自分を縛る心のこわばりを住まわせている人は少なくないと私は思う。 
 自分の中にある「ちから」を育み、のびのびと発揮することは善きことのはずだ。 
 それならば。 
 私の中にある「これ」は信念という言葉に値するのだろうか。美学と呼べるだろうか。なぜ、こんなにも重いのだろう。 
 自分の中の重たいものは、他人の手によってほぐしてもらうことは出来ない。お酒だって効かない。ただもう自分で見つめ、言葉にするしかない。自分のこころでしか直せない。 
 抱えた歪みに気づくのを手伝うことをカウンセリングと呼ぶなら、「喪失記」は優れたカウンセリングの小説であった。 
 「喪失記」が一人称なのは、そういう必然があるのだ。
  

(99.07.28 1行追加:99.06.18 なつせ)
 

 

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