<私的感想>
強く干渉しながらバラバラな父と母と暮らす理加子。抽象的とすら思えるほど極端に抑圧的な家族。抑圧的な日常が普通の日々となっている。 家族という自分に一番近い外側、一番近い「普通」の重圧がそこにある。「ずっとそうだから」、「みんなそうだから」というだけで相当にいびつな「普通」にも慣れ、それが普通のことになってしまうのである。 娘らしいことの何もない理加子の日々。ぴょんちゃんシールのくだりは涙がにじんでしまう。つま先が暖かくなるのはいいなあと言うところも。 江木という男との出会いと別れが、理加子の日常に風穴を開ける。 その「つきあい」も相当にヘンではあるが、外に向かって働きかけるということを理加子は憶えるのだ。自分が本当はどう思っているのか、目をつぶらずに見つめることも知る。 そして、理加子は自分の現実の戻っていく。自分の外側にある「家族」というもの(「学校」や「世間」だってそうだ)が規定する「普通」の重さから踏み出すことを始める。もっとまともな現実を捕まえるために。自分の現実、自分の孤独は自分で何とかしなければならないものなのだ。 「ドールハウス」は、外側にある重いものからの解放のために背中を押す物語だ。 ・・・と、私は初めて読んだときに思って、かんどーした。
(99.06.11 なつせ)
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